好きなことを好きというのははずかしい という思い込み
好きなことを人に知られるのははずかしいって、ずっと思ってました。
これは自分では無意識で当たり前に思っていたことなので、気づくこともなく40過ぎまで生きてきました。
気づいたきっかけ
子どもが好きな本を何となく恥ずかしそうに隠すしぐさをしているのを見て、子どもには、そう思ってほしくないのだとうことに気付きました。
子どもがちょっと恥ずかしそうにしている時には
「 恥ずかしいことはないよ。
興味があるんだから借りてきて読むんでしょ。それだけだよ。」
「人が何を好きかなんて、誰からも口を出されるべきじゃない」
などとわたしは言っていたのです。
その言葉を、改めて意識しました。
なぜこうなったのか?
そして自分はどうしてこうなったのか思い出そうとしてみました
小学生のとき、落書き帳に漫画を書くのが好きだったのです。
それを叔母に見られたときのこと。
漫画の女の子の顔が怖い。目が悪魔のようだと言われたのです。
わたしは可愛い女の子のつもりで書いたのだけれども、お前は悪魔を描いているのだろうと言われたのがとてもショックでした。
そこでいわゆる空気を読む子上に気弱だった私は、なんとなく、嫌だったけれどもニヤニヤとその場を収めてしまいました。
以来その顔を書くことはやめました。
とってもとっても恥ずかしかったのです。
とってもとっても嫌だったのです。
でもはっきりそういう風に言われるのは嫌だとか、これは違うのだとはっきり主張ができませんでした。
それ以来、誤解されることが恥ずかしいのですね。
こんなことを大事に思っているのかと馬鹿にされるのも嫌だったのです。
本当に好きなものを隠すようになりました。
そうでもないものに興味があるようになふりをしたり、本当に好きな方向のものには興味がないふりをしたり。
隠すことで失ったもの
すると本当に好きな物って、結局わからなくなるのですね。
結局、このことによりわたしは10代の早いうちから30代の後半まで、本当に好きなことがわからずにさまようことになります。
趣味というものを持っている人が羨ましくてしょうがありませんでした。
自分は何かをやろうにも、手間やお金など失うものをが先に考えてしまいます。
自分の得られるかもしれない満足感というものを計算できないのです。
何も始めることができないのです。
すると人に誘われてやるようなことばかり。
あとはお手軽な娯楽ばかりです。
発信は大切。やらなくてはいけないレベルのこと
文章を書くということがわたしにとって楽しいことです。
40過ぎて気づいてから、本当にホッとしています。
今はやりたいこともありますし、 興味を持ったものを実際にやって行くメリットも充分に想像できます。
突き詰めていくと次に興味のあるものも出てきたりして、どんどん展開していくのですね。
この感覚が分からなかったなんて、とてももったいないことだと思います。
子供たちには、自分の興味のあるものをしっかり握りしめて進んでいくのだと伝えます。
おしまい